第3回 長嶋茂雄選手~引退の舞台裏

長嶋茂雄選手~引退の舞台裏

有名な長嶋茂雄選手の引退セレモニー。

その一方で、長嶋選手と深澤アナが水面下でやり取りを行っていた事をご存知でしょうか?

引退の舞台裏を深澤さんに語っていただきました。

《第3回 長嶋茂雄選手~引退の舞台裏》

ショウアップナイターファンクラブの皆さん、深澤弘です。

今週は長嶋さんの選手引退についてお話ししていきたいと思います。

長嶋さんが選手を引退したあんなに悲しい時はなかったんですが、1974年、長嶋引退というのはシーズンが始まる前から既定事実のようになって、今年が終わったら長嶋は引退する、そしてジャイアンツの監督になるというのは子供でも知っているような事実になり、改めて新聞も報道しなかったんです。

でも実際長嶋さんの口からは引退するという言葉は出ておらず、グラウンドでは非常に元気にやっているので、ひょっとして長嶋さんはこのまま続けるんじゃないかなというような期待もあったんですが、実は1974年シーズン中、長嶋さんと森祇晶(当時・森昌彦)さんのロッカーは選手の部屋からコーチ陣の部屋へ持っていかれました。コーチと一緒に生活をするようになって、シーズン中改めて川上監督と読売新聞・報知新聞の幹部が長嶋さんに本当に引退してくれますね、来年から監督やってくれますねという意思確認をしている訳ですね。

本当は打撃の真髄を掴んだばかりだっただけに、長嶋さんはもう1年、自分が掴んだ打撃の真髄を試してみたかったんですが、しかしその辺はやはり川上監督も分かるので、シーズンの途中で長嶋さんを呼んで、最終的な意思確認をしたんですね。

これはまた別の日に改めてお話ししたいと思いますが、長嶋さんは22歳でプロに入って、ガンガン打ちまくっていた。これは自分でも言っているんですが、当時は素質だけで打っていたと。ところが30歳を過ぎて32歳ぐらいになると、素質だけではどうしても打てない、やっぱりバッティングの理論というのをしっかり身に着けて、その理論でバットスイングをしなければ打てないということに気が付いて、32歳くらいから練習の内容も変えるんですね。それはまた改めてお話しますけれど、長嶋さんは引退するというその前年も同じような練習を繰り返していたんです。

したがって世間は固唾を飲んで長嶋さんが何を言うのかを待っていたんですが、なかなか本人は俺は引退するということを言わない。

未だに覚えていますが、1974年の10月1日。この日はジャイアンツはゲームがなくて練習もなく、完全にオフの日だったんですね。その日の朝、長嶋さんから私の自宅に電話がありまして、今日は会社に行くのかと言うので行きますと言ったら、悪いけど会社へ行くとき俺の家へ寄ってくれないかと言われ、私は川崎から南武線に乗って武蔵小杉で乗り換え、東横線に乗って田園調布で降りて、そこから歩いて7、8分の長嶋さんの家に行きました。

大した用事ではないだろうなと思って行くと、長嶋さんが大広間で一人ソファに掛けているんですけれども、当時10月1日なんですが非常に暑い日だったんですね。部屋がもんもんとしているんですが、長嶋さんというのは現役時代絶対にクーラーを使わない人だったんです。ですからいつも通り部屋が暑いんですが、そこへ座れと言われて座ると、

「実はあなたを呼んだのは俺のことなんだけど。」と言うんですね。俺のことって何だろうと思ったら、「俺は、世間で言われている通り、今年で辞める。夕べ俺が家でやった練習のスイングを見たと思うけど、俺の肉体なんか全然衰えていない。まだまだ大丈夫だ。ただ、川上さんも辞めるということを考えている。川上さんの後は俺がやるということは川上さんも考えている、球団も考えている、ファンも考えている、マスコミも考えている、みんなが考えている。それで俺はまだできる、だからもう1年やらせてくれと言ったらガキだろう。だから、俺は非常に残念だけれど、辞める。お願いなんだが、雨が降ったりしてスケジュールが変則になっているので、俺が辞める日のスケジュールは、セレモニーなんかやってくれると思うんだけれども、それはナイター中継の時間枠に入らないもっと早い時間、各局が音楽番組をやったりニュースをやったりしている夕方ごろになってしまうと思うんだが、悪いけどニッポン放送ではそこのところを特別枠を取って俺の引退中継を全部やって欲しいんだ。俺も後世に残しておきたいので、是非引退中継をやって欲しい。それをあんたが喋って、俺とあんたは年も同じだから、一緒に引退しよう。」と言うんですね。

アナウンサーというのは38歳なんていうのはこれからなんですが、そんなバカなことは言えないので分かりましたと。

そして会社へ急いで帰って編成局長のところへ行き、こういうことなのでとにかく時間を取って欲しいと。放送して欲しいと言っていますがと話すと、当たり前だろうやるのはと言われてそこで長嶋さんの中継をやるというのは即決でした。その時完全中継をしたのは、ラジオではニッポン放送、テレビでは日本テレビだけだったんですね。日本テレビは、10月13日の引退試合の中継が、最初は予定はなかったんです。その時間帯はちょうど特番「永遠なる背番号3」というのを、阪神タイガースを引退した村山実さんをゲストに放送する予定だったんです。

ところがその引退のゲームが始まる前から、球場は騒然としてくる、球場の周りはどんどん人が集まってくる、おまけに日本テレビに何で中継しないんだとガンガン声がくるというので、急遽日本テレビが予定を変更して、15時10分から17時半まで中継することになったんです。

したがって、最初から中継を決めていたのはニッポン放送だけだったんですね。

私も放送しましたけれども、この人がこれでいなくなっちゃうんだと思っただけでも何とも言えない暗い気持ちになって、あんな寂しい思いをしたことはなかったです。

長嶋さん自身も引退を決めたものの、本当はもう少しやりたいなと思っていたんです。ですから長嶋さんは最後の「ジャイアンツは永久に不滅です。」という中で、“私は肉体に限界を感じ”という一言があるんですが、私は引退のセレモニーを中継していて「長嶋茂雄は嘘をついた。肉体の限界なんか感じていない。ジャイアンツというチームの流れの中で引退せざるを得ないということを非常に悔しく思いながら今日は引退するんだ。」ということを喋っていました。

長嶋さんが引退式を終えてチーム全員に挨拶をして、田園調布の家に帰ってきたのは夜の8時ごろだったそうですね。

家ではどうだったかというと、みんな玄関に並んで「お疲れ様!!」と奥様を初め全員が同じように声をかけてくれて、家ではできるだけ明るく自分を迎えてくれたということで、後に喜んでおりました。

それから長嶋さんがいよいよ引退をした後ですね、長嶋内閣が来年どうなるかということで、今度はそっちの方へ話題が色々いく訳です。

実はニッポン放送ショウアップナイターのエースだった関根潤三さんをヘッドコーチにもっていくんですね。それで長嶋さんが関根さんにちょっと一言話してくれないかと言うと、関根さんは「深ちゃん断ってくれ。」と言うんです。「俺は何もコーチがやりたくて長嶋茂雄とバッティング理論を交わしたり仲良く付き合っていたんではない。だからバッティングの話に付き合ったことに義理を感じて俺をヘッドコーチにするんだったら大きな間違いだから断ってくれ。」と言うので、長嶋さんのところへ行って、関根さんはこういう理由で辞退したいと言っていますと言うと、「馬鹿を言っちゃいけない。そんなこと関係ない。俺はあの人がいないとダメなんだ。あの人格が必要なんだ。もちろんもっと言えば打撃論とかそういうもの必要だけれども、あの人が持っている人格が必要なんだ。」ということで、関根さんが長嶋内閣へ入る訳ですね。

そして年が明けて春になってベロビーチへキャンプに行くわけです。帰ってくると、とにかく日本中“長嶋内閣”ということでどこへ行ってもお祭り騒ぎなんです。そして関根さんがベロビーチから帰ってきて、「深ちゃん失敗したよ。練習が足りなかったよ。特にランニングが。なんだかもうフロントも選手もみんな浮かれちゃって、報道陣はみんなお祭り騒ぎだし、練習に集中できる雰囲気じゃなかった。だからランニングが足りない。あんな練習じゃ年間もたない、へばっちゃうよ。」ということを、関根さんは帰ってきた瞬間に話していました。

その通り、長嶋ジャイアンツは第6位に沈んでしまうわけですけれども、

ほんとにこの1974年引退、1975年船出、この1、2年は長嶋さんにとって忘れることのできない非常に起伏の激しい年でした。

さて、今週のショウアップナイターヒストリー、いかがでしたでしょうか。

ショウアップナイターファンクラブでは毎週月曜日に深澤弘のショウアップナイターヒストリーを更新してまいります。これからも更にとっておきの話をしますので、どうぞ皆さんお楽しみに。

ではまた来週!お相手は深澤弘でした。

 

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