第1回 ショウアップナイターのはじまり【無料公開中】

ショウアップナイターは、どのようにして生まれたのか?

その背景をたっぷりと語って頂いております。

《第1回 ショウアップナイターのはじまり》

ショウアップナイターファンクラブの皆さん、お久しぶりです。深澤弘です。

今日からこのショウアップナイターファンクラブの中で、「深澤弘のショウアップナイターヒストリー」と題して、このコーナーを担当させていただくことになりました。

ショウアップナイターや、あるいはプロ野球にまつわる歴史を、今だからこそ話すことができる私の経験を織り交ぜながら色々お話ししていきたいと思います。

毎週月曜日に更新してまいりますので、是非お楽しみください。

 

さぁ早速ですが、では最初は私が初めてプロ野球の担当記者としてグラウンドに入った昭和39年、1964年あたりを振り返ってみたいと思います。

1964(昭39)年というのは、前回の東京オリンピックの年ですね。

ちょうど東京オリンピックの放送ということで、東京の民間放送のアナウンサーは全員オリンピックの本部に駆り出されて、ニッポン放送でも当時、竹野アナウンサー・枇杷阪アナウンサーこの2人がオリンピックチームに取られまして、プロ野球を担当するアナウンサーの数が少なくなったので来いということで、私は仙台の東北放送からこのニッポン放送へ来たんですが、仙台というところは本当に素晴らしいところでして、こんな素晴らしいところはもう一生住むところだと思いそう決めておりましたので、ニッポン放送から誘われた時もなかなか決心がつかなかったんですけれど、まぁ結局私は川崎市の生まれ川崎市の育ちで、何となく川崎に愛着があるので戻ってまいりまして、1964(昭39)年からニッポン放送のナイターのメンバーの一員として加わることになった訳です。

その1964(昭39)年は、オリンピックの開幕が10月10日。何が何でもどうしても絶対そこまでにはプロ野球を終えなければいけないということで、その年に限って、パシフィックリーグは3月15日から30回総当たり、それからセントラルリーグは3月22日から28回総当たり、開幕日を早めてゲームを行いました。しかし終わってみるとなんとジャイアンツの観客動員が200万人という、今では当たり前ですが、当時としてはびっくりするような数字を記録しました。まさにこれはON人気だったんですね。王さんがプロに入って5年目、長嶋さんが入って6年目ということで、ONが本当にこれから絶頂にいくというところで、ジャイアンツは200万人、そしてセントラルリーグ全体でも600万人入ったということはこれは当時大変話題になったのを覚えております。

このあたりからプロ野球の人気が少しずつ上がってきたんですね。

そしてペナントレースの方は、東京オリンピックがあったということで何となく東京のチームが遠慮したのかどうか分かりませんが、日本シリーズは阪神タイガースと南海ホークス(現ソフトバンクホークス)の対戦にあって、4勝3敗で南海が勝つわけですけれど、東京オリンピックに関係なく、全然東京で日本シリーズがなかった訳ですから、うまい具合に全試合大阪で行われまして、東京の人間は全部オリンピックの方へ集中できたことを覚えています。

その年オリンピックが重なりましたけれども、振り返ると、王貞治さんが55号のホームランという日本記録をつくったこと、それから金田正一さんがシーズンオフにジャイアンツへ移籍して14年連続20勝したこと。そしてもう1つ、今は日本人がメジャーへ行くことは何ら珍しいことではないんですが、1964(昭39)年にマッシー村上こと村上雅則さんが南海からサンフランシスコジャイアンツへ野球留学、勉強のために行っていたんですが、勉強を見ていたサンフランシスコジャイアンツの連中がこいつは使えるぞということで、南海は使うなんていう契約はしていないんですがそんな約束をまったく無視して、マッシーをローテーション投手として使って、9月29日のカブス戦でマッシー村上が日本人大リーガーとして初めて勝利をあげるという、そんな色んなことがありました。

肝心のジャイアンツの方は、投手陣が藤田さん・城之内さん・中村稔さん、この3人が主力にいたんですが、この3人が故障の連続で、とうとう一度も首位に立つことができず、第3位に終わったことを覚えています。

この年は大洋(現DeNA)の打線、桑田・近藤和彦・クレスニック、それから阪神の投手陣、バッキー・村山。この争いとなって、結果的には阪神タイガースが優勝するわけですけれども、いずれにしてもこの1964(昭39)年、私は初めてプロ野球のグラウンドに入ったんですが、改めてそこでプロ野球のすごさを感じた訳です。

そしてナイターの方はどうかと言いますと、1964(昭39)年にはニッポン放送もナイター中継をしておりましたけれども、今のように全日ではなく土日だけだったんです。「ニッポン放送土曜ナイター」「ニッポン放送日曜ナイター」とタイトルをつけたことを覚えています。それから昭和40年になって、ニッポン放送のナイターは今度はどういう訳か土日を止めて、火・水・木で「ニッポン放送火曜ナイター」などという風に変わってくるんですね。いずれにしても全日で放送するということはニッポン放送もTBSもなくて、その裏で実は全試合放送していたのがラジオたんぱ(現ラジオNIKKEI)です。短波放送はプロ野球を全試合中継していたんです。ただ当時非常に音が悪かったものですから、都内でもこのラジオたんぱを聞きにくい所もあったりしたんですけれど、しかしこの全試合やるという、これに対するファンの信頼がかなり聞かれました。これを見ていたラジオ関東(現ラジオ日本)も昭和40年から全日ナイターに踏み切りました。しかしラジオたんぱの全日ナイターは音が悪くて聞きづらい、ラジオ関東の方は関東ローカル局ですから日本中には聞こえない。ということで、なかなか聞こえないところが増えてきたんです。しかし聞こえるところでのナイター中継の人気というのはすごいんですね。そしてそれを見て1966(昭41)年、ニッポン放送とTBSが全日ナイターに踏み切って、1967(昭42)年にはニッポン放送は全日ナイターにショウアップナイターというタイトルをつけて、それが今日まで延々と続いているわけです。

初めのニッポン放送の解説は、中日の欠番になっている背番号10番をつけていた服部受弘さん、それから小さな大投手・浜崎真二さん、ジャイアンツのキャッチャーの楠安夫さん、大毎の中継ぎ投手の山根俊英さん、明治大学OBの児玉利一さん、こういった方が解説をつとめていたんですけれど、1966(昭41)年、ショウアップナイターの前年から色んな声が出てきて、これはどこの局だかわからない、この声が出てきたらニッポン放送だ、ということで声を1人だけに統一しようということで、急きょ関根潤三さんに解説を依頼しました。本当は関根さんも近鉄(現オリックス)を辞めてジャイアンツに1年いてその後アメリカへ野球留学へ行くはずだったんですが、それを引き留めて、それ以降関根潤三さんが未だにニッポン放送の解説として席を置いているわけですね。

ショウアップナイターは明るく楽しい中継をしようということで、当時、中川正勝さんという方がディレクターというかプロデューサーでナイターを全部仕切っていたんですが、1966(昭41)年、ショウアップナイターと命名する前の年に突然1ヶ月くらいいなくなってしまったんです。中川さんどこでさぼってるんだと言ったらアメリカへ野球を見に行ったと。いいねぇと思いながらあの人が見に行ったってアナウンサーじゃないんだからしょうがないじゃないかなんて言っていたところに中川さんが帰ってきて、どうでしたと聞いたら、「ドジャースやカブスやそんなチームはどうでもいい、各球場全部見てきた。向こうの球場のすごい盛り上がり、なぜこんなに盛り上がるか。あの盛り上がりを放送で使うことができないかどうかということを研究してきて、いっぱい材料を持ってきたから、来年それをもとにニッポン放送のナイターを衣替えしたいと思う。」ということで“ショウアップナイター”という名前を付けて、「だからお前たちも淡々とした放送ではなくてショウアップした良い放送をするんだ。いいか、基本的には言葉で絵を描くんだぞ。これを忘れずやれ。」ということで非常にうるさく指導されました。

それでジングルを使ったりいろんな情報を入れたりして、今まで淡々と喋っていたナイターを衣替えさせたんですね。それがそもそものショウアップナイターのスタートで、これが1967(昭42)年のことです。それ以降、ショウアップナイターを土台として、色んな出来事があります。

今日はそのショウアップナイターのスタートについてお話ししましたけれども、深澤弘のショウアップナイターヒストリー、いかがでしたでしょうか。

ショウアップナイターファンクラブでは毎週月曜日に「深澤弘のショウアップナイターヒストリー」を更新してまいります。是非この機会にファンクラブに入会していただいて、どうぞ毎週チェックしてみてください。ホームページ右上にある「会員登録」のメニューから入会手続きができます。

これからとっておきのネタ、いろいろあります!本当に面白い話がたくさんあります!

今まで溜めておいた話がいっぱいありますので、皆さんにお聞きいただきたいと思います。

どうぞお楽しみに!

ではまた来週!深澤弘でした。